昔の知り合いに、エスカレーターの片側を歩くのはやめましょう、というのが公式見解なのにエスカレーターの片側を空けて歩けるようにし続けているこの社会はおかしい、と全くもって正当な理由と強い意志を持って、結構混んでるデカめの駅のエスカレーターの片側を身を挺して積極的に埋めにいく人がいた。
その人は歩道を走るチャリも制裁対象にしており、後ろからベルを鳴らされても絶対に退かない強い意志を持っていた。
交通ルールをあんまり知らなそうなママチャリおばさんと睨み合い・一触即発になったこともある。
その場面に居合わせた私は、正義の示し方が暴力的じゃないか?知らない他人と衝突するのが君の正義なのか?周囲の人間の気持ちやその行動に至る背景は正しいことより劣るのか?とか思っていた。
これ相手に伝えると、
「正しいことをしている自分が責められる筋合いは無い。急いでいる人間は階段を使えばいいし、交通ルールを知っておくのは自転車に乗る人間の義務だ。他人とのすれ違いを恐れて、正しいことを主張している僕を批判する君の方が問題じゃないか。」
と言われ、当時はぐうの音も出なかった。
行動はともかく相手の主張そのものは至極真っ当なので、知らない人と喧嘩しないでよ〜…と言うくらいしかできなかった。
正論ってそりゃ正しいけど、正義感で正論を貫いた結果、現場が困った状況になった場合に、周囲の人間の神経をすり減らすことや事態がさらに悪くなる可能性が正義の文脈の中に組み込まれていない場合は、現実的に問題を引き起こしている時点で正義として破綻しているんではないか?と思う。
行動を起こすのであれば、エスカレーターがちょっと空いてる時は二列に並んで乗るとか、歩道を爆走し警笛を鳴らしまくるママチャリおばさんに遭遇しても「あれほんとはだめなんだぜ、自分らはやめとこうな」と反面教師にするとか、個人としてできることはそんくらいが限界なんじゃないか。
私的な制裁は自分にとっても相手にとっても危険だと思う。
交通違反へのペナルティ付与係はおまわりさんに任せたらええし、駅や商業施設の他人の行動の問題は駅員さんや警備員さんに任せたらええんではないか。
(賃貸マンションの隣人トラブルなんかも、直接相手の部屋へ殴り込みにいくのではなく管理会社へ報告するのがルールだ。)
公的機関や社会的役割を担っている組織に頼っていてはきりがない、個人の行動がこそが世界を変える!という意見も本当にそうだと思うが、上記のような場面にいたっては、ひやひやするのでケンカはやめて〜!!というのが私の意見である。
正義感を強く持ち、社会の不条理と対峙し、自分のような人間がいることで社会をよりよくできると信じることは一見素晴らしいが、一歩間違えると自分や他人へ暴力的になりすぎる、と私は思っている。
また社会への問題意識を持つことと、個人的な感情の問題は分けて考えないといけない。
通ずるところはあっても全く同じではない。
社会に対する個人の怒りを持っていても、特定の他者へ怒りの矛先を実際に向けるのはシンプル争いを産むと思いませんか?どうでしょうか。
同調圧力に負けているとか、気弱だとか、そういうパワー系漢気理論の話をしているのではなく、個人と公的機関(仕事として役割を与えられている人々)が担っていることを分けて考えたほうがお互いしんどくなりすぎないんじゃないの?というようなことを思うのです。
状況は違いますが最近似たようなことがあったので、久々にこの知人の主義主張を思い出し、このように記しました。
彼はまだ警笛鳴らしまくりママチャリおばさんと歩道で戦っているのだろうか。
